2017年07月07日

表玄関を入ると


表玄関を入れば、そこは来客を迎えるためのスペースとなっている。
布目タイルの床に砂壁、上を見れば少し細かい格天井である。
念入りに面取りされた引き戸や柱、明かりとりも含めて木材は漆仕上げとなっているようだ。
窓やガラス後の意匠も面白く、個人の別宅としてはかなりの見事さだと思う。


普通寺社仏閣ではよく見る格天井であるが、個人の邸宅に使われているのは珍しい。
爵位とかを持つ人の館か、かなり公共性の高い建造物であれば普通に納得できるのだが。
そして六畳間ほどのスペースながら、白木の格天井は微妙に和洋折衷になっている。
中央の照明が吊り下げではなく、造り付けの木の台座に固定されているのも面白い。


床に使われている布目タイルはどうやら泰山製陶所製の、いわゆる泰山タイルであるらしい。
小さなタイルをびっしりと、それこそ目地がほとんどない敷き詰め方はかなりの左官の技らしい。
屋敷の修復を手がけてくれた左官屋さんが言うには、かつて和紙にタイルを並べて4〜6枚のタイルを敷き詰める技法があったらしいのだが。
この部分が作られたのは昭和16〜17年と推定されるが、修復があったかどうかは不明ながらもおそらく当時のままではないかと思われる。
それでもこれらのタイルの予備は、数百枚程度残されている。


窓の下の下駄箱はともかくとして、ここにはもう一つ面白いものが残っている。
ホールスタンドとという家具で、ビクトリア時代の英国で流行したものらしい。
コートや帽子を掛けるためのフックや、ステッキを置くためのボックスフォルダー。
中央には服装をチェックするための鏡もある、紳士の国ならではのものであろう。
今は雑多な物置状態になっているが、別宅とはいえさすがに龍次郎翁の表玄関である。  

Posted by そらねこ at 22:35Comments(0)

2017年07月04日

玄関前で長々と


表玄関の石段は幅いっぱいつなぎ目の無い、大きな大谷石で組まれている。
屋敷の建造は昭和13年着工で昭和28年竣工ということになっているが、この部分は昭和16〜17年の建造と思われる。
75年余り経つが石はまだしっかりしているのは、よほど良質の大谷石を使ったからであろう。
漏れ聞くところによると、龍次郎翁のご親戚が大谷石の採掘をされていたようである。
素人なので用語は合っていないかも知れないが、脇桁は大谷石のブロックに加工した御影石が乗っている。
そしてくの字に曲がった石段の曲がり角には、こんな加工を施してある石があるのだ。


さらに反対側の屋敷方面を向けば、こんなレトロな蛇口を見ることができる。
すでに使用できない水道であるが、それについては後ほど語ることにしよう。
それにしてもこの蛇口は、昭和レトロのちょっとした美術品に見えてしまうのだが。
樽隊のサビ色も良いのだが、何と言ってもハンドルの形状が素敵であろう。


まだまだ面白いものがいっぱいあるのだが、さっぱり前に進まないのでこの辺で一旦屋内へ。
おそらく何度かまた立ち戻り、いろいろな面白さを描きたいものである。
玄関を入る前に庇を見上げると、飾り瓦があることに気づくかもしれない。
この噴水のような瓦は屋敷の各所にあり、防火の願いが込められているのだそうだ。  

Posted by そらねこ at 20:02Comments(0)

2017年07月03日

屋内に入る前に


普段のガイドだと屋内で説明を始めるのだが、今回はまあここで簡単に。
家中龍次郎氏は前にも書いたが、北条のまさにこの屋敷へ入る今の空き地に御生家があった。
小学校を卒業し東京に出て勉学に励み、就職もされたが招集されて満州へ出兵されたそうだ。
かなりの激戦地を転戦しながらも生還したが、そのとき何を思ったのであろう。
満州事変が収まり満州が日本の統治下になったとき、仕事で再び満州へ向かうこととなる。
ガイドではその辺はかなり割愛しているが、興味がある方は公式HPの詳しいコラムをご覧いただきたい。
長くなるので端折るが、貿易関係に携わっていたが重要物資であるセメント防水剤がなかなか入荷せず、自ら会社を起こしつつ研究所を創設した。
科学の教育は受けてなかったものの、満鉄関連の援助を受けて独自のセメント防水剤「マノール」を開発するに至った。
日本に戻り油脂化工社(現 株式会社マノール)を創設し、一代で財を成した人物である。

さて普段はさっさと玄関に入っているのだが、実はこの表玄関は本来一般の訪問者が入れる場所ではなかったようである。
それ以前に中門の中の前庭にさえ、普段は入ることができなかったそうだ。
その辺はまあのちに語るとして、表玄関のこだわりをもう少し。
なかなか中へ入れないが、せっかくであるから普段のガイドにない部分も。  

Posted by そらねこ at 22:47Comments(0)

2017年07月01日

中門を入れば


中門を入ると建物が見えるのだが、確かに風変わりだが「お屋敷」「豪邸」のイメージとは違うように思えるだろう。
それほど大きな家にも見えないし、何が凄いのだろうと思われる方も多いはず。
だが侮ってもらっては困るのだ、伊達に1時間近くもガイドが説明するだけのものはある。
普段は屋内に入ってからガイドを始めているが、本来ならば外から説明を始めたい。
だがそうすると、1日掛かりの見学になってしまう恐れがあるのだが(笑)


中門の正面に擁壁がありその上にも庭が見えるように、ここは南北に長い傾斜地で敷地面積は770坪ほどある。
この裏はかつての北条城址である北条小学校であり、その通学路までがこの家の敷地であるのだ。
高低差は10mほどあり、その中腹を削り埋め立てて生活の場としての母屋と応接用の別館とが建てられている。
建て主はもちろん矢中龍次郎氏であるが、ここは還暦を過ぎてから故郷に立てた別邸なのである。
だがそれゆえ昭和40年に亡くなられた後、40年ほども無住の状態で放置されていたのだ。


もう9年も前になるのだろうか、ひょんなことから所有者が変わり、そしてまたひょんなことから当時の筑波大生が調査を始めたのであった。
まあその頃はまだその存在すら知らなかったので、語れることは多くはない。
ただ噂では聞いたので、当時試験的に行われていた公開で覗き、その魅力にとりつかれたと言えるだろう。
今思い出せばその時の印象は、ものすごく豪華な廃屋だった気がするが(笑)
まだまだ整備(というか発掘?)や、清掃の途中であったのでなんとなく手伝いに。


そしてそこに不思議な魅力を感じ、何度か通ううちに勧められ友の会会員の第1号に。
もちろんNPOの創設メンバーや立ち上げ時の協力者とは、かけ離れた単なる見学者に過ぎないが。
興味にまかせて色々な風景を眺めたが、いつまでたっても見飽きないのが不思議であった。
そして当時はまだガイド講習もなかったのに、いつの間にかガイドの手伝いを始めていたのである。
そうやって見学の方をご案内していると、さらに色々面白いものが見えてきた。

ここまでの画像の中でも、語りたいものがいっぱい存在する。
次回はそんな面白い話ができたらいいが、いつまでたってもガイドにならなくなりそうだ(笑)  

Posted by そらねこ at 18:48Comments(0)

2017年06月29日

矢中家の跡地には


不細工ながら入り口に敷石を置いてくれたのは、近所の筑波高校生たちである。
「つくばね学」という社会貢献の授業があり、その一つとして矢中の杜が選ばれたようだ。
とはいえアルバイトでもボランティアでもなく、授業の一端を任されて四苦八苦。
それでも何か形に残るものをと、彼らに考え工夫してもらい設置したものである。


そして西壁側の花壇は、任意団体だった当時の屋敷の景観美化の一環だったように思う。
さすがに若い人たちと同等とはいかないが、それでもかなり汗水を垂らした思いがある。
まだ最終的な構想などなかったと思うが、荒れ果てた屋敷を復興しようとしていた。
ある意味無謀ともいえるそんな若者の活動に、手を貸したくなったのも頷けるだろう。


そして時間軸はかなりずれるが、かつて矢中家で使用していた車が戻された。
今はシートに覆われ保存状態も良くないが、龍次郎翁とそのご子息の愛車だったらしい。
手前にあるのがドイツのオペル社製の、オリンピアという車のようである。
翁のご子息が乗っていたものと思われるが、戦後とはいえこの地ではかなりモダンだったろう。


奥に置かれたのはおそらく T型フォードの終盤タイプではなかろうか。
おそらく翁が使っていたものと思われるが、よく見ると右ハンドルなのだ。
推測するに、戦前にイギリスで生産されたものではなかろうかと思う。
この車たちはちゃんと部品も残っていており、整備すれば稼働可能という。
このまま朽ちさせるには惜しいのであるが、レストアにかかる費用はNPOにはない。  

Posted by そらねこ at 21:42Comments(0)

2017年06月28日

通りから覗いてみると


さて屋敷を訪れてみると、その目立たなさにたいがい困惑するらしい。
何しろ普段は、ありふれたブロック塀に古びた鉄格子の門。
公開日でさえその門が開けられて、看板が立っているだけなのだから。
国登録有形文化財の文字があっても、通りからではさっぱり得体が知れない(笑)


だがその空き地を思い切って入り、中門まで来てその向こうを見ればどうであろう。
そこから見える不思議な建物はこれからとして、まずはその空き地から説明が必要なのだ。
そのブロック塀の後ろの空き地に、屋敷の建て主であった矢中龍次郎氏の生家があった。
昔の商業区に多い、間口が狭く奥行きのある敷地である。
今の屋敷部分の土地は、後年龍次郎翁が新たに買い求めたものである。


振り返れば大正時代の郵便局であった、カフェポス店の真向かいであるのがわかる。
龍次郎翁の生家が何をしていたのかは、あいにく知ることができていない。
ただ屋敷建設の頃にも、画像の右手に二棟の家屋があったそうである。


門を入ると足元には、ちょっと不細工な敷石が三つほど並んでいる。
長年の土砂の堆積と道路の嵩上げにより、雨が降ると泥沼化していた入り口の対策である。
もちろん業者に頼める資力も無く、素人の手作りなので笑われそうな出来ではあるが。


そして入って左側の塀に沿っても、手作りの花壇が並んでいる。
まあ雑草が生えている時期も多いが、地元の方に手入れをしていただいている。
季節の花が咲いているのは、そんなご協力によるものなのだ。

次回は過去の話に戻って、敷石と花壇のことでも語ろうか。  

Posted by そらねこ at 23:02Comments(0)

2017年06月26日

さてどうしようか


6月最後の公開日も、夏のような天気だった。
中門前に薄紫の彼岸花の葉は花が咲いていたが、あれはなんだったんだろう。
調べてみたらアガパンサスという花のようだが、今年初めて目にする気がする。
その花がなぜか、幻影のようなもう一つの屋敷へと誘っているようである。

そもそも「矢中御殿」のブログを作り始めたのは、自分の感動を記録したかったからだ。
当然当初は見学者の立場であったが、いつの間にか内部の人間になっていた。
2,000回あまりも書き続けていると、自分の楽しみのためのものから変わっていってしまった。
せっかくのこの機会であるから、もう一度自分の感動と思い出のためにブログを書こうか。

さてどうしようかな、もう一度自分のために屋敷をガイドしてみるのもいいか。
ガイド時間も気にすることなく、思い切り寄り道をしながら・・・。
時には現状と違ってしまっているかもしれないが、これはあくまでも思い出の中の屋敷の案内なのだから。  

Posted by そらねこ at 18:00Comments(0)
軽はずみな言動に対し、NPOから忠告を受けた。
もちろんこちらの不徳であるのであり、まったく面目もない。
一体自分は何をしてきたのかとの思いも込めて、ここに少し足跡だけは残したい。
今後新たな画像は紹介できないかもしれないが、せめて今回は最新の画像を。
長年鬱蒼と茂っていた楠が、大胆に枝下ろしされた。
視界を遮っていた枝葉がなくなり見晴らしも良くなったのだが、何とも不思議な光景である。
ご近所への落ち葉はなくなったが、一気に日陰がなくなった。
ご迷惑をかけないつもりの作業だったが、どう感じられたであろうか。  

Posted by そらねこ at 21:55Comments(0)